憲法と天皇
女性天皇を認めるのですか。

孝明天皇と側室中山慶子との間に、睦仁親王(明治天皇)は第2皇子として生まれた。第1皇子の名は歴史に記録されていない。

明治天皇には后・一条美子の他5人の側室があり、15人の子を作り内5人が皇子であったが、成人したのは嘉仁親王(大正天皇)お一人でした。母は側室の柳原愛子である。

大正天皇は九条節子を后とし側室は持たなかった。病弱だったといわれ裕仁親王(昭和天皇)を摂政に立たれたが、4人の皇子を得ている。つまり、昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮である。

昭和天皇は良子女王を后とし、明仁親王(今上天皇)と常陸宮の2皇子を持たれた。

今上天皇は皇室外から正田美智子を后に迎え、徳仁親王(皇太子)と秋篠宮の2皇子に恵まれた。

皇太子は小和田雅子を皇太子妃とされ愛子さまを、秋篠宮は川嶋紀子を妻とし眞子さま、佳子さまをお育てになっており、現在の所、お二方とも皇子に恵まれていない。
日本国憲法 第1章 天皇
第2条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

皇室典範 第1章 皇位継承
第1条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

現憲法は天皇の性別を規定していない。但し、憲法第1章第2条と皇室典範第1章第1条を併せ読むと、皇位は皇統に属する男系の男子が世襲継承することになっている。
それでは現段階で皇太子の次ぎ、天皇の次の次は誰になるのか。

有資格者は何人かいるが、先のことを考えたとき皇統を継承する能力、つまりこれから皇子を作れることを条件とするとどうだろうか。
今度は皇太子(1960.2.23生)、秋篠宮(1965.11.30生)から逆に遡る。

今上天皇と兄弟の常陸宮はお子様がない。

昭和天皇の兄弟達はどうか。
秩父宮と高松宮は跡継ぎが無く既に断家されている。残る三笠宮(1915.12.2生)はご健在で、高木百合子を妻とし、寛仁親王(1946.1.5生)、宜仁親王(桂宮-1948.2.11生)、憲仁親王(高円宮-1954.12.29生、2002.11.21没)と3人の皇子をもうけられた。長男の寛仁親王は2女の父、次男桂宮は未婚、三男高円宮は3女をもうけたが既に他界しており、いずれも男子を持たない。

さらに遡るが、大正天皇には成人に達した兄弟皇子は無く、明治天皇の兄弟は名前さえ記録されていない。

常識的に考えると皇室典範の定める男系の男子は皇太子と秋篠宮で途絶えてしまい、次への継承の可能性はかなり薄い状態にある。現状は今上天皇の孫3名と、三笠宮の孫5名がすべて女性である。
参考資料
宮内庁ホームページ、特に皇室の構成図が現状を理解しやすいと思います。
世論調査 「女性天皇を認めますか。」
    2005年1月15-16日  読売新聞  面接調査   認める―79%
    2005年1月29-30日  朝日新聞  電話調査   認める―86%
    2005年2月11-12日  毎日新聞  電話調査   認める―87%

新聞社の恐ろしさをあらためて感じます。日本国家の根源をなす問題をまるで男女雇用均等法のアンケートのように、突然電話をかけ、あるいはマイクを突きつけるようにして求めた回答を、大新聞社の世論調査としてセンセーショナルにその数字を発表し、国民を誘導し、国家指針を誤らせようとするは大逆の徒、お追従の幇間であろう。
昭和の泥沼戦争に引き込んだのも大新聞社の仕業であったかと改めて思い知る。

    2005年1月25日  首相の私的諮問機関として、皇室典範に関する有識者会議を発足。

    2005年2月3日   第1回憲法調査会(衆議院)  議題 1.天皇 他
                →→→ 討議内容のホームページ

衆議院の憲法調査会で討議された「天皇」についての発言要旨。

1.天皇は、国際的には事実上の元首と認識されているが、・・・、元首と明記することには慎重であるべきである。(船田元・自民)

2.憲法の冒頭には、天皇は我が国の元首であり、歴史・伝統・文化及び国民統合の象徴として我が国の平和と繁栄と幸せを願う存在であるという「国のかたち」として定めるべきである。(保岡興治・自民)

3.天皇は、文化と歴史を体現し、政治権力に正当性を与える権威をそなえた存在と位置付けるべきである。(野田毅・自民)

4.世論調査でも86%が・・・。女系の女子にも皇位継承権を認めるべきである。また、皇位継承順位については、男子優先型と長子優先型があるが、男女平等原則にのっとり長子優先型を参考にすべきである。(大出彰・民主)

5.国民世論の賛成があること、お世継ぎ問題の重圧から皇室を解放すべきことの観点から、女性天皇を認めるべきである。(古屋圭司・自民)

6.皇位継承について、2条を読む限り、憲法は、男女の区別や男系女系の区別をしていない。(土井たか子・社民)

7.女性の皇位継承は、常識的に考えて認められてよい。ただし、その議論以前に皇室典範9条の養子禁止規定を見直す等の手段があるとの意見にも耳を傾けるべきである。(赤松正雄・公明)

8.私的行為とされる歌会始の儀や新嘗祭などは、歴史的に継承されるべきものであり、その存在価値や意義は大きい。よって、公的行為については、皇室典範に明記すべきである。(池坊保子・公明)

(元首について)・・・驚いたことに自民党の輩はいつのまにかまた、陛下を元首と祭り上げ、行く末、開戦の稟議書に決裁の御璽を押させるつもりらしい。
(世論調査)・・・案の定、大新聞社の世論調査を利用して、国民のご機嫌取りが跋扈し始めた。
(男女平等と天皇制)・・・自由と平和も、民主主義も、男女平等も、本来農耕型封建主義的「天皇制」となじむものではない。
(国事行為と皇室祭祀)・・・もともと巫女の末裔である天皇家から宗教行事を取り上げてしまう憲法解釈は如何なものか。首相が靖国神社に参拝して近所から文句を言われるのと、伊勢神宮の神事は別物です。

  大日本帝国憲法
第1章 天皇
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

  日本国憲法
第1章 天皇
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第2条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

   意訳―憲法に定められた「天皇」
第1条 天皇は統治者の座を降り、国民の象徴となられた。
第2条 皇位は皇室典範の定めにより、皇男子孫が継承する。
何故、男子だけが皇統を受け継げるのか、
何故、皇室典範に継承の順序を細かく規定したのか、
何故、天皇及び皇族に養子の禁止をしたのか、
すべてが天皇制の歴史、伝統、文化の産んだ知恵であろう。
万世一系の血の純潔こそ、国民が唯一天皇制を支持できる根源ではないのか。

女性天皇、女帝など起こりえないように憲法は草案されて来た。
第1章、第1条はその法律の背骨です。再度確認します。
皇室典範 第1章 皇位継承
第1条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
女帝の歴史

現在の天皇を125代とみる歴史観から見た場合、女帝(女性天皇)は8人、10代登場しています。

第33代・推古天皇
推古天皇は第29代・欽明天皇の皇女で母親は蘇我堅塩、異母兄、第30代・敏達天皇の后でした。宿敵、物部守屋を倒し、32代・崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子は、同族の皇太后を天皇に推し、初の女帝・推古天皇が誕生します。推古天皇の同母兄、31代・用明天皇の厩戸皇子・聖徳太子を摂政に起用し、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の長期政権が出来上がります。結局推古天皇が73歳まで長生きした為、聖徳太子は天皇になれずに49歳で亡くなっています。推古天皇の後は孫に当る舒明天皇が34代を継ぎました。
この様に初代の女帝は蘇我馬子の専横によって誕生したわけです。

第35代・皇極天皇と第37代・斎明天皇
第34代・舒明天皇が亡くなるとしばらくして、その后が皇位を継ぎます。第35代・皇極天皇です。しかし、天皇の皇子である中大兄皇子や中臣鎌足等が当時の専横者・蘇我入鹿を大極殿で殺害し、クーデターがおこり、弟の第36代・孝徳天皇に譲位します。このとき初めて元号が立てられ、後に大化の改新といわれます。
そして、孝徳天皇が亡くなると、第35代天皇が再度皇位につき斎明天皇と追号されます。
繰返しますが、第34代・舒明天皇には後の第38代・天智天皇(中大兄皇子)、第40代・天武天皇となる立派な皇子がいましたが、時が満ちるまで母親が身を挺して継ないだことになるといえます。あるいは中大兄皇子が称制(皇位に就かずに祭りごとを行なうこと。)を好んで行ったのかも知れません。
しかしこの母親天皇は天皇制史上嘗て前例の無い「譲位」を行い、しかも「重祚」(2度皇位につく)しています。

第41代・持統天皇 第43代・元明天皇 第44代・元正天皇 第46代・孝謙天皇と第48代・稱徳天皇
持統天皇は天智天皇の皇女で天武天皇の后です。太上天皇(上皇)と号し、第42代・文武天皇に譲位します。
元明天皇も天智天皇の皇女で天武天皇の皇子・草壁皇子の后です。
元正天皇は天武天皇の孫、草壁皇子の皇女で、初めて天皇または皇子の后でない女帝が誕生し、甥にあたる第45代・聖武天皇までの継なぎをします。
天智天皇の死後、壬申の乱によって天智天皇の皇子・第39代・弘文天皇は、天智天皇の弟、後の第40代・天武天皇に敗れ自刃し、天武天皇一族の世となりますが、どうも皇子に恵まれません。
第46代・孝謙天皇は第45代・聖武天皇の皇女で第47代淳仁天皇に一度は譲位しますが、後に淡路に流し、再度皇位につき第48代・稱徳天皇となります。
なんと3人の皇子を皇位につけるため、4人のばあさん女帝が5代に渡って天皇位を支配して、最後は矢尽き、玉尽きて天武天皇一族は消滅し、天智天皇の孫にあたる第49代・光仁天皇、第50代・桓武天皇と天智天皇の血筋が現在まで流れることになります。
この西暦592年から770年までの間、男子天皇8代、女子天皇6人8代とまさに女帝時代といえます。
しかし、聖徳太子と蘇我馬子が活躍し、小野妹子が遣隋使として出発し、法隆寺が建立され、大化の改新を経て、平城京に遷都し、古事記、日本書紀が脱稿し、国分寺を建立し、東大寺の大仏開眼供養が執り行われ、鑑真が来訪し唐招提寺を建立した大変に輝いた日本史の時代でした。

第109代・明正天皇
明正天皇は第108代・後水尾天皇の皇女で、母は徳川秀忠の娘・東福門院。紫衣事件によって、幕府と朝廷の関係はギクシャクし、後水尾天皇は7歳の皇女にさっさと位を譲り、院政を引き、綱吉の時代まで生き延びる。(「様〜見やがれ」と江戸言葉で啖呵を切ったとは伝えられていない。)
明正天王は後に生まれる弟、第110代後光明天皇に譲位するまで14年在位する。

第117代・後桜町天皇
後桜町天皇は第115代・桜町天皇の皇女で、第116代・桃園天皇の姉にあたり、桃園天皇崩御後皇子の元服まで8年間在位する。

この様に、后の他に数人の側室がいる時代でも綱渡りの皇位継承が行われ、江戸時代にも二人の女帝が即位している。しかし、あくまでも一代限りの女帝で、当時の権勢者、あるいは上皇、院に利用された傀儡天皇であっても、必ず本流の男系男子にバトンを渡しています。
しかも、万世一系の建前で、養継子が行われない為に驚くべき飛び石継承が行われます。

天皇継嗣史上最大の窮地におちいった南北朝時代を見ると、要になる第88代・後嵯峨天皇は二人の皇子に譲位し、自分は27歳で院におさまる。後の北朝方、第89代・後深草天皇-当時4歳と、後の南朝方、第90代・亀山天皇-当時11歳が順に継承し、以後しばらくはこの兄弟天皇たちの子、孫へたすき掛け人事が行なわれ、南朝方、第96代・後醍醐天皇のとき、足利尊氏が六波羅を攻め、新田義貞が鎌倉を陥落し、北条高時は自刃、鎌倉幕府は倒れます。3年後、尊氏は第93代・後伏見天皇の皇子・光厳院(北朝第1代天皇)を奉じ入京、後醍醐天皇は吉野に遷り南北朝が成立する。その56年後、南朝方第99代・後亀山天皇は京に戻り、神器を北朝第6代=第100代・後小松天皇に譲り、南北朝に幕を閉じる。
後嵯峨天皇から見て、後亀山天皇は6代下り、後小松天皇は8代目にあたる皇孫です。後亀山天皇は曾々々爺まで遡り、曾々々々々孫の後小松に皇位を譲ったことになります。

こんなことが現代に可能でしょうか。
それ以上に、国民は受け容れられるでしょうか。
遡っても明治天皇までで、それ以前の天皇の子孫だから皇位継承の資格があると突然現れても承知できないと思います。

それから、皇子皇孫がいないといって、内親王が嫁いで男子を得たとき、先ず元内親王が女帝となり、その後男子が天皇となって継承されることを認められるだろうか。
たとえば花子内親王が鈴木一郎さんに嫁ぎ、鈴木花子さんになり、太郎君を出産したとします。後年、鈴木一家は皇室に迎えられ、元花子内親王は花子天皇、鈴木太郎君は太郎皇太子、そして後に太郎天皇として、国民に万歳三唱を求め、君が代を起立して歌わなかったからと言って、懲戒免職になってしまうのだろうか。


特に皇室典範草稿時に過去の事例を研究し、あらゆる事態を想定したはずです。
考えが及ばなかったとすれば、平民から皇后を迎えるのが当たり前になり、皇族が側室を持とうとせず、国民もそれを容認しない時代になったことであろう。
大奥の維持に莫大な費用をかけた徳川家でさえ、7代将軍で直系は絶え、紀伊和歌山から吉宗を養子に迎えています。
この様なことをすべて踏まえて皇室典範は出来ているはずです。

若し不幸に、皇室に男系男子の跡取が出来ずに、天皇の後継がなくなったら、ご一族は京にお帰りいただき、皇居は一切手をつけず国民の自然公園とし、京都に旅行した時、ご門の外から深々と頭をたれてこそ日本人の心の象徴になられるのではないだろうか。

これは男女平等の問題ではないのです。
アンケートのような世論調査をもって談じることでは絶対にないはずです。

→→→首相官邸による皇室典範に関する有識者会議のHP
会議の議事次第がアップされています。平成17年5月31日の第6回会議、大原康男国学院大学教授の意見を是非お読み下さい。
また、高崎経済大学の八木秀次助教授の資料の最後に、1947年に皇籍離脱された旧宮家の系図が文芸春秋3月号から転載されています。
旧宮家は戦後、GHQの指示によりリストラされた旧伏見宮系の一族ですが、北朝3代目の崇光天皇の嫡男、伏見宮榮仁親王を祖とし、102代後花園天皇を一族に擁し、昭和天皇の妻、良子女王(香淳皇后)も一族の一員でした。まさに太平記の時代に遡り、皇統の保持を考えせざるを得ない状況にあります。


大日本帝国憲法
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラス

言い換えてみよう。
天皇制は神聖にして侵すべからず。

元旦や 一系の天子 不二の山    内藤鳴雪


制作=2005年4月7日
追記=2005年6月10日