「釣狂五十年」・昭和8年5月5日発行、青野文魁堂
題字 徳富蘇峰
題字 永田青嵐
序 下村 宏
序 田中茂穂
「続釣狂五十年」・昭和8年10月13日発行、青野文魁堂
題字 幸田露伴
松岡文翁(文太郎)著の釣の指南書です。
著者のはしがきが面白いのでここに記載します。
「釣狂五十年・はしがき」
あゝ、釣五十年何の得るところぞ、失敗又失敗、無駄骨折った其はてが、鯊釣十年 鮒釣二十年 自得した正味はほんの少量(ぽっちり)、たゞ健康に大量(どっさり)の副産物があった。まだ精勤証を戴かぬが、日曜日(やすみび)と大祭日(はたび)とは、雨が降っても風が吹いても、かゝさず出掛け通すので、忝なくも釣狂の正札を附けられた。由来釣師には拙手(へた)の横好きが多く、いくら魚に振られても、憂身をやつして性懲りもなく、せっせと通ひ詰める風景は、全く本気の沙汰でない、尚ほ其上に熱が昂じて大天狗を気取る者さえある。我等も矢張り御多分に漏れず、近頃逆上して慢性天狗病に罹って居るらしい、それではどれだけの実力(うでまえ)があるかといふに、若し新規の人に 釣方一年 実習二年 仕込んだならば、優に我等と同等以上の釣師が得らるゝ、かう楽屋を見せると、永年の経験も、から意気地のないものとなる、だがそこには一ッ綾がある、それは五年十年の研究も、種あかしは一日で出来るからである。抑も(そもそも)我釣道楽は、一仙六俗 を主義とする、清流に臨みては、一竿の他は諸物を忘れ、家庭に帰りては、獲物に団欒の興を添ふ、これ一週、一日は仙人六日は俗人となるの意である。
さて、五十年の過ぎし昔を振り返れば、其折々の失敗と無駄骨折りとがありありと頭に浮ぶ、年若の人達に此同轍を踏ませるも気の毒、そこで老後の思出に、其失敗の歴史(なりゆき)を有の儘にさらけ出し、転ばぬさきの杖とする。本書の地金は鈍(なまくら)で、御誂向の鉤には打てぬが、白癡(こけ)の一心 凝って鍛へた此一本、まあ使ってみて下さい。
昭和八年三月吉祥日 七十三叟 文翁識す
「釣狂五十年・巻末追記」
本書はもっと沢山書く積りであったが、己に予定の三百頁に達したから、一先づ是で打ちきりまして、体験の一部を発表致します。若しまだ余命があって根気が続いたら、此続編を認めませう、老人の事ですからあてにしないで待って居て下さい。 文翁
「続釣狂五十年・はしがき」
一文鉤に三文竿、木綿糸をつないで、だぼはぜ釣りの味を占めたのが癖になって、隙さえあれば近所の大聖寺川へせっせと通い詰めた。歳十六感ずる所ありも気障だが、まあ一時中断した。明治九年京都 十年大阪に出たが、鴨川の水も淀川に水も性に合わぬので 十一年の春に東京に流れ着いた。其後十年 八朔の汐干に州崎に遊んで、不図釣客(つりびと)に遇って むらむらと謀叛気が起こり、歳二十八帰り新参となって、深川木場の鯊釣り一年生に逆戻りした、一日かゝって鯊を大枚六尾(むっつ)釣ったのが切掛けで、遂に釣狂となったのである。それでも いくら好きだからとて、溢(あぶ)れても溢れても又溢れても、性懲りもなく出掛け通しては、本業の邪魔になるので、日曜日と大祭日の他には、夜釣り泊りがけ、不衛生なことは、一切やらぬと心に制限した、それで釣りの範囲が自然狭い。
自分の釣りには何の主義主張(とりとめ)もなく、空々寂々一日竿を振り廻せばそれで気が済むのである、併し永い間水にいそしむと、自然に甲羅に苔が生えて知らず識らず古顔となって、若手から相談を受けることも度々ある、下司の知恵はあとから廻って、昔を思えば、あの潮時にはあゝして、この風向きにはかうして やればよかったと残念に考へる事がざらにある、同じ失敗(しくじり)を人様にまたと繰返へさせるも御気の毒と考へ、大正六年十月不束ながら雑誌「つり」を発行して柄にもない企てをした、そして足かけ六ヶ年継続したが、歳六十二奮闘力に欠陥を生じ、一升瓢箪には一升しかどうもはいらぬ、我一生の努力も是迄と観念して、神田の事業地を払って池袋の隠遁地に余生を楽しむ事とした、爾来春秋幾星霜(そののちとしつきがはやくたって)、健康は旧に復して、矍鑠(くわくしゃく)壮者を凌ぐと思ったが、それは気ばかりで矢張り年は年、眼は薄く ちょっかいはおそく、いくら焦っても、釣りっくらをすれば、孫に釣り負ける、達者な者は口ばかりである、そこで其達者な口を利用して生命のある間に、拾った事を書き残せと、皆様からの御勧め、その御世辞をまに受けて、知ったか振りに、くだらぬよまいごとを並べ立てたのが、先に発行した「釣狂五十年」である。
鉱脈を掘っても金鉱は出ないが、他の二の舞をしない限りは、鍍金(めっき)や合金はない、正真正銘看板に詐りなしである、世間様は御目が高い、幸に其正直を買って下さって、一代の文豪徳富蘇峰先生 が東京日日新聞紙上に於て、讃評を辱うしたるは、枯木に花を咲かしたるものである。碩儒の言論は、金銭を以って購うべきでなく、威武を以って侵すべきでない、唯是成学成徳の発動であるから、そこが尊いのである、此処に其全文を掲げて花輪に代ふるも無意味でない。
釣狂五十年 蘇峰生
予は著者松岡文太郎翁を知らない、けれども予が友人の友人にして、本年は古希を過ぐる三歳、其一生を数学の先生として過したる市隠と聞く。夫子自から釣狂五十年と云へば、何人もそれに対して、異議の申立様はあるまい。
記者は何事にも不器用なれば、釣もダボ鯊を釣った位にて、何等の造詣はない。されど幼時に魚籠を携へて、祖父の沙魚釣りに随ひ、秋風のそよそよとして、入江の提上の茅や、提下の葭を吹く比の清々しき気分は、今尚ほしばしば記憶の上に蘇り来りて、その光景、眼前に髣髴たるものがある。
著者は数学の専門家程ありて、其語る所は凡そ科学的である、少なくとも科学的香味を帯びている。魚の十大特性 釣十ヶ条 など、恐らく釣客に取りては、六韜三略とも称す可き価値があるであろう。
尚ほ「釣師の天分」なども、流石に著者に相応する題目だ。此に至りて著者が「どうせ釣るなら、名人の型にはまった本筋に釣れ」との文句の苟もせざることを感ずる。
更に 鮒釣り 鮎のどぶ釣り 沙魚釣り などの各題目に付ては、著者五十年来の実験と研究とより出で来りたる知識を、惜気もなくぶちまけている。
尚ほ釣堀に就ても、それぞれ其薀蓄を傾け、先づ釣堀の用語から定義を下しているところなど、何処までも毛色の違うたる著者の特色を発揮している。
然るに著者は自から足れりとせず、此れは体験の一部を発表しる迄にて、若しまだ余命があって、根気が続いたら、此続編を認めませう、老人のことですから、あてにしないで、待って居て下さい」と断っている。されど天下の釣客、何人もそれを期待しないものはあるまい。我等も其道の為め、切に其健在を祈らねばならぬ。
尚ほ 東京朝日新聞 報知新聞 中央公論 釣之研究 海と河 東京釣魚新報 考へ方 如水会報 白雲等の各誌上にて、御披露下されしを感謝し、併せて知友知己の厚き御援助を感謝致す次第である。御約束に依り 続編 を出して、責任の大半を果す、何卒宜敷。
昭和八年九月二十四日 文翁
「大釣りのこつ」・昭和11年9月8日発行・高陽書院
題詠 永田青嵐
序 下村 宏
「大釣りのこつ」 序
謹啓 益御多祥国家の為に奉慶賀候
さて小生今般此世の名残として「大釣のこつ」やっと脱稿いたし本月中に出版の運と相成申候。就いてはご多忙中恐入候得供何卒貴下の序文を得て巻頭に花をかざり閻魔への土産に致し度・・・。
文翁先生あつかましくもまたまた、釣りをしないゴルフ狂いの下村宏(貴族院議員、敗戦当時NHK会長。クーデターを起こした青年将校の脅迫に屈せず、玉音が収録された録音盤の在りかを隠し通した人物。)に序文を強要してしまいました。
巻頭 「我釣にあぶれなし」
釣りは釣りでも我釣は、釣れる日には腕に縒りをかけて、しこたま釣り、釣れぬ日にも油断なく、まぐれを拾うて釣りにする、出掛の気分を帰るまで失はない釣を釣とする。からあぶれは気の弛みで、我釣にあぶれがない。
釣れぬとて 油断御無用 気を張って 紛れ拾へば 釣りとなるなり
「大釣りのこつ」巻末追記
この書は少なくも鮒・鯉・鯊・鮎の四編をおさめんと思ひしに、紙数予定以上に達したので一先づ筆を擱く。折柄庭前の朝顔が今日精一ぱいに咲き、我と同様に心残して明日復た咲かんと花筆を甲斐々々しく擡げたるを見て、
朝顔や あすもかくぞと 花の筆
読みにくい部分もありますが、著者の文章の持つリズムを損なわぬように、極力原文通りの仮名遣いを心がけキーボードを叩きました。またカッコ内の平仮名は著者のふったルビです。
続釣狂五十年のはしがきにある通り、松岡文翁は日本で始めての釣り雑誌、「つり」を創刊しています。これについては釣本の研究者、丸山信さんの「釣本の周辺」−初のつり雑誌−に詳しい。
釣り文献、汗牛充棟のコレクター、金森直治さんの「列伝・日本の釣り師」に、「数学教師 松岡文翁―28歳で発狂?」と題してその人物なりが載っています。尚、社団法人全日本釣り団体協議会のホームページ、「釣りコラム−水辺の賢者たち−4−(松岡文翁)」で金森さんのコラムを読むことが出来ます。
歳十六感ずる所あり釣りを一時中断し、明治九年(1876)京都へ、翌十年大阪に出たが、鴨川の水も淀川の水も性に合わず、十一年の春に東京に流れ着いたとあり、16歳−京都、17歳−大阪、18歳−東京と移り、その十年後、二十八歳(1888)で帰り新参となったとある。逆算すると文翁は1860年・万延元年に加賀の大聖寺川で産湯につかったことになり、金森氏の研究によると1941年・昭和16年に81歳で亡くなられています。
松岡文翁は他の釣文献にも登場し、活躍しています。
石井研堂著 「釣遊秘術 釣師気質」 (アテネ書房) ―五月の鯉釣
漁史「鉄橋脇では、今朝早く二本挙がったやうです。」
老人「神田の箱屋ですか。」
漁史「よく御存じですね。」
老人「あすこで張るのは箱屋さんか、築地の学校先生に極ッてますよ。
その外、吹屋町の硝子やさんは六軒、大工町の建具やさんは木下川、
此辺の鯉ッ張なら、大抵分ッてます。」
ここに出てきた、築地の学校先生が文翁です。本名松岡文太郎は当時、築地にあった立教中学で英語の教師をしていました。関東大震災後、立教は現在の池袋に移転しています。・・・もう一ッ
日高基裕著 「釣する心」 (アテネ書房) ―鮎子に送る手紙
鮎子さん。
二十年前私が訪問しました時には、あなたは雀躍して迎へてくれましたね。
今年はいかがです。やはりあの時と同じやうに御元気でいらっしゃいますか。
あの時、私はまだ十四で紅顔の美少年?の組にはひれる頃でした。
松岡文太郎先生に連れられて、ある土曜の午後、多摩川のあなたの棲家へ行ったのです
そして、松岡先生の秘蔵娘のお染さんの御手引で、
私はあなたの十三人の御姉妹に初対面したわけです。・・・
制作=2005年3月21日
加筆=2005年7月6日